広沢寺開基大内教幸大内教幸

 大内教幸もこの地球に住んでいた大内教幸は、幼名孫太郎、左京大夫、掃部頭、剃髪して南栄道頓といった。

彼は第26代大内盛見の長男として産まれたが、大内氏を継いだのは弟の大内教弘だった。

何故、教弘が大内を継ぐようになったのか、それは第27代大内持世が、教弘を小さい時から嗣子として養育していたからだ。

 第28代大内教弘が幕府より四国の河野氏を討つように命じられたが、彼は姻戚関係であった河野氏を援けて細川氏と戦った。

教弘が四国のゴゴ島で病死すると嫡子の大内政弘が、大内29代を継ぐ。

彼は細川と戦い勝利していたが、応仁乱となった。

政弘は細川と戦っていたので、河野氏と共に西軍に参加した。

東軍の大将細川勝元が、大内氏をかく乱するために、その頃九州の代官を務めていた大内教幸を誘う。

 大内教幸が東軍につくと仁保保有氏らが呼応して一定の勢力になった。

そこで大内教幸が、長門国の赤間ヵ関に決起した。

この時大内政弘は京都にあって、留守を護っていたのが、陶弘護だった。

陶弘護と益田氏が中心になって、大内教幸と戦うようになった。

大内教幸は長門国、周防国と攻め寄せたが、陶・益田勢に勝てなく、一旦九州に去ったが、再び決起した。だが、陶・益田勢に敗れて、文明2年1月25日に豊前国馬岳で自害した。法名広沢寺殿南栄道頓大禅定門。

 大内教幸には三人の男子がいた。長男師子丸は、周防の花宮山で生害した。次男加嘉丸は父と一緒に馬岳で生害したことになっているが、実際には父が哀れに思い、自分が自害するときに家来をつけて落ちさせた。

のちに彼は山口氏をと名乗り現在も続いている。九州の名家である。

三男弘慶は文明2年に父が自害する時、長門国阿武郡川上柿並谷に逃げて助かり、その地名を取って柿並というようになった。

柿並弘慶の嫡子隆幸は安芸国折敷畑で討死し、その嫡子隆正は、陶晴賢に殉じて安芸国厳島で自害した。
       これは広沢寺に伝わる大蔵経の原本の一部
大蔵経の唐本、非常に珍しいものです。

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